
昨日2回目の坐禅に行って参りました。
3月上旬に1回目、4月上旬の2回目を体験し、こんなにも季節は流れているのだと感じた。
詳細には3月5日と4月2日である。
1ヶ月の季節の流れは突然に起きているのだろうか?
4月2日を迎えて坐禅をし3月5日と比べることで、あーこんなにも変わったのかと気づいたのである。
しかし、季節、気候、気温は日々刻々と変わっているのである。
私たちが気がつかないレベルで、1秒1秒変化しているのである。
小さな変化に私たちは気がつけない。
大きな変化になって初めて気が付く。
それは仕方がないことだが、理解として1秒1秒変化していることを知らなければならない。
禅を通して仏教を学ぶようになり、偉いお坊さんたちはこんな素晴らしいことに昔から気がついて広めていたんだと感動する。
臨床を通しても、小さな変化に気がつかない人は、良い変化に注目できない人は、なかなか治りにくい。
良いも悪いも波があることにすら気がつかず、変わらないと言う。
この世に不変なものなどないのだ。
同窓会で全然変わらないね、と言われて喜ぶ女性も少なくないだろう。
変わっていないとは容姿のことなのだろうか。
心のことなのだろうか。
言った本人の本心はわからない。
馬鹿にしているのか!と思うくらいでないといけないのかもしれない。
相手に怒りを向けるよりも、己は変わらないと言われるくらいにしか成長していない変改していないことを反省すべきである。
話を戻して。
季節の流れを感じた理由の1つはこれだ。
坐禅会には初めてお会いする方が数名参加されていた。
ある方が、窓を開けての坐禅に「寒かった」と感想を述べられていた。
私は前回との比較があるので「暖かかった」と述べた。
果たして、寒かったのだろうか、暖かかったのだろうか。
外的要因はさほど変わらない。
受け手が異なることで発せられる言は異なる。
つまり、内的要因がそう言わせているのだ。
私は前回との比較から暖かいと感じた。
また、坐禅は修行、寒さも修行と認識していたので、少しの風、寒さでは暖かい、心地よいと解釈したのだ。
五感を通し感じる刺激はコントロールできない。
五感刺激に心が反応し、何かを表現するのである。
心が変われば表現も変わる。
今までの心の状態に気づけば、表現が変わる。
臨床での考えが、今回の坐禅を他人様と行うことで気づきを頂いた。
ありがたい座禅会であった。
また参加しよう。
篠崎大輔